「パッション」

2004年6月12日 映画
どうも考えがまとまらないのだが、メモ的にダラダラ書いておく。

子供のとき教会の日曜学校に近所の友達に誘われて行ったが、配られたお菓子の取り合いでケンカして二度と行かなかった。そんなバカで野蛮な子供だったので、以来聖書を読んだこともないし、映画のストーリーの前設定や、ときおり挟まれる福音書のエピソードもよくわからない。それでもいろいろ考えさせられて面白かった。

キリストは、啓示を授かった神の子として見えた。だから救済の使命を受けてすでに世俗を超越した存在であり、鞭で打たれようと杭で手足を貫かれようと人間的な痛覚はすでに放り去っているのだ。
延々と、しかもスローの多用やしつこい音楽やられるので見ているうちに麻痺してきた。ちっとも痛くない。

痛いのは彼を取り巻く人間たちが、怒りや憎しみ、嘲りなど、ひたすら人間としての負の感情を剥き出しにするところ。汝の敵を愛せよ。って言うけど、愛というよりも赦す、あるがまま認めるってことだろう。そういう境地になれば争いはなくなるかもしれないが、人間が人間である所以であるところの感情の起伏を否定することになるのでは?

短絡的だけど、「2001年宇宙の旅」で宇宙の意識と一体化したスターチャイルドが時間や場所の概念を超越して“ただ居続けた”ような状態になっていたが、やっぱアレしかないのかなぁ、というかんじ。いま人間はそれぞれ自分の内なる小宇宙でもがいているが、そんなこと宇宙船から地球を眺めるとどうでもよくなるのだろう。

クリスチャンが作った映画として、人類の罪を一身に背負ったキリストの偉大さは十分に伝わったけど、社会的集団としての人類の救いのないしょうもなさも十二分に思い知らされてしまった。キリストは好きでも人間はキライなんじゃないかと思わせるような厭世観。そんな中で聖母マリアの、母性愛に溢れる感傷的な描き方はいらんかったと思った。意味がわからん。じゃま。

ラストで復活するキリストは、人間を超越した存在として位置づけるるためと思えばうなずける。処刑されるまでに受けた迫害の数々もきれいに清算されるのだ。愛とか赦しでもなく、ただニュートラルに戻る。そんな感じがいいです。

映画としてベタベタな出来だったけど、無知な自分にも少しは人類の行く末を考えさせてくれたので良い映画だったです。
(☆4つ)

あ〜、やっぱダラダラ長い。あとで書き直そう。

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